枚聞神社

- 枚聞神社は境内のバックに開聞岳を拝める歴史ある神社。 -

IBUSUKING - 指宿JC公式・指宿情報サイト

枚聞神社

 JR指宿線の終点の山川駅からバスで開聞岳の麓まで約30分、その北麓に「ひらきき」と読む枚聞神社があります。鮮やかな朱色の建造物が並ぶ境内には千数百年をへた楠 の老木が多く茂り、薩摩一宮の聖域を保っています。神社の前は桜並木のつづく長い馬場があります。朱塗り社殿は慶長15年(1610)島津維新(義弘)の再興、天明7年(1787)島津重豪が改修したもので、後ろにそびえる開聞岳の緑に社殿の朱が映えています。  開聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に当たる海門にその雄姿があるので、「かいもん」と呼ばれるようになったが、古くはヒラキキ岳と呼ばれ、枚聞大神の神霊が宿る御神体山としての古代信仰の形態が残しています。海抜922mの美しいコニーデ火山で、頂上に約100mの高さの円頂丘があるのでトロコニーデ式ともいわれています。西南の突出部には約20mの海蝕崖、東と北西には美しい砂浜が長くつづいています。全山樹木におおわれ、南国の早春、菜の花の黄色をしきつめた海岸に、屹立する姿は薩摩富士の名にふさわしい荘厳な山で、神殿を拝むと同時に前方に大きくそびえる薩摩富士を拝める景色は神秘的です。

 創建の年代は不明でありますが、『延喜式』薩摩国2座は小社で、穎娃郡の枚聞神社と出水郡の賀紫久利神社です。枚聞神社の祭神は大日靈命(天照大神)を祀りますが、祭神に諸説があります。  その一つが豊玉姫を祀るとする竜宮伝説です。海神の娘である豊玉姫や妹の玉依姫の竜宮の乙姫たちは、彦火火出見尊の訪れによって島国を知ることになります。  敏逹天皇12年(583)に百済の僧日羅が仏教公布の目的で渡来した地であり、奈良唐招提寺創建の鑑真が、54歳のとき仏法を日本に伝授するため、渡来を企て5度の難破にあい失明しながら、天平勝宝6年(754)66歳で日本に着いたは坊ノ津でした。鑑真は東大寺で聖武天皇をはじめとして戒を授けました。

 枚聞き神社は古来より薩摩一の宮として人々の厚い信仰を受けてきた神社です。 天照大神のほか八柱神を祀る薩摩国一の宮で、正面に唐破風の向拝が付いた勅使殿があり、奥には拝殿、幣殿、本殿があります。

 旧社格・国幣小社。薩摩国一宮ですが、新田神社も「薩摩国一宮」を名乗っています。 この神社は特に、交通・航海の安全や、漁業守護の神として崇敬が寄せられています。 優雅なたたずまいの朱塗りの社殿は、周囲の木々の緑に映えて見事です。 向拝柱に彫られた雲龍の彫刻は、見事の一言です。宝物殿に収蔵されている松梅蒔絵櫛笥は国の重要文化財に指定されており、 そのほか、琉球から伝わった額や島津家に関係する古文書など、貴重な品々があります。

 創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられています。 元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられています。 信頼できる史料での初出は『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日庚午条であり、少なくとも1200年ちかい歴史があると思われます。

 鎌倉時代以降は新田神社と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになり、 戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にありましたが、元亀2年に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失いました。 しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興し、現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘が寄進したものを天明7年に島津重豪が改築した物です。 しかし江戸時代には八幡神を合わせ祀った新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治23年には枚聞神社は「国幣小社」になったのに対し新田神社は「国幣中社」でした。 外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになりました。

Copyright © 指宿青年会議所 2007 All Rights Reserved.