篤姫

- 篤姫は幼少期から養女になるまで指宿で過ごしました。 -

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篤姫の生い立ち

 篤姫は天保6年12月19日(1836年2月5日)、鹿児島城下(領主 今和泉家)に生まれる。幼少期から養女になるまでこの指宿で過ごす。父(領主)は島津忠剛。その後、島津斉彬の養女になり篤子(あつこ)に改める。と同時に鹿児島から江戸藩邸に入る。当時、徳川家の将軍は次々と夭死していた。長寿で子沢山だった将軍家斉が島津家から輿入れさせていたことにあやかろうとしたといわれている。これが大奥へと展開していく。この裏側で将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれ幕閣が対立していた。斉彬は慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を江戸城に送り込む。政治的使命を帯びて送り込まれた篤子は時代に翻弄されていく。安政3年(1856年)、篤姫は薩摩藩と関係の深かった近衛忠煕の養女となり、この年の11月に家定の正室として大奥へ入る。しかし、安政5年(1858年)7月に斉彬、同年翌月の8月には家定が急死し、14代将軍には徳川家茂が就任することとなる。政治的使命を果たすことが出来なかった篤子は家定の死により、以後「天璋院」と名乗る。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出たが、天璋院はこれを拒否。そして時代は幕末から明治維新へ..激動の時代が訪れる。慶応3年(1867年)に15代将軍慶喜が大政奉還を行う。江戸城の無血開城のために島津家に嘆願し、徳川家や慶喜の救済に尽力した。

篤姫の過ごした場所

 今和泉家の本邸は、現在の鹿児島市内の大龍小学校の隣りにあり、敷地は4600坪あったといわれますが、今和泉島津家初代島津忠郷(たださと)は、宝暦4年(1754年)に、現在の今和泉小学校の所に別邸(領主仮屋)を建てました。今は建物は残っておらず、小学校の海岸側に当時の石垣や松林(隼人松原)、校庭には井戸と市の指定文化財で、篤姫も使ったとされる手水鉢(ちょうずばち)が残されています。
 松林(隼人松原)越しに眺める錦江湾の遠方にかすかに桜島が見えます(写真上)隼人松(写真左)は樹齢300年以上と言われています。
 現在でも昔の風情が残るこの今和泉別邸に篤姫は、18歳まで過ごしたといわれています。宮尾登美子さんの小説の中で『別邸は、本邸の間取りを写して表には城壁を囲い、老松を配していかめしく作られてあったが、裏座敷は海に面していて、とくに夏場が涼しかった。座敷から草履をはいて庭にで、石垣のあいだの段々を十ばかり下りると、そこはもう砂浜になっており、つい目の前には波が打寄せていて、子供の絶好の遊び場所であった。』と書かれています。

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